私こと、えーいちが法人営業を辞めるまでの話です。
法人営業としての日々
石の上にも3年というのはよく耳にする言葉だ。
実際、忍耐は必要だと思うし、事実、私も5年弱は在籍していた。
だが、限界だった。。
通信系の大手企業に新卒で入社し、半年間の研修を経て、法人営業部隊へ配属された。
私は情報系の院卒で、技術的なことはある程度学んできたが、修論を書く過程でこれを仕事にするには向いてないと思った。
そのため、入社後の人事面談で「技術からは少し離れた部門に配属してほしい」と伝えた。
人事部としては、技術採用のつもりであったろうから、ある程度の技術的な素養がないとお客様への説明が困難となる法人営業部隊へ配属されたことは妥当だと思った。
しかも、期待されてか知らずか、自社のなかでも最重要顧客のグループ会社を任されることとなった。
私が配属された法人営業部隊は、営業とSE、事務の方々、通信回線の開通担当の方々から構成されていた。
他の部隊もその点は同様だが、異なるのは既に強いパイプの築かれた顧客相手であることだった。
他営業部であれば、ホワイト(自社サービスが全く導入されていない企業)に対し、テレアポや飛び込み営業を実施するということもあったが、私の営業部ではそれはなかった。
一定以上の信頼関係で結ばれた企業間の関係。
良い響きだが、それは政治力により成立している部分が大きく、例えば自社サービスより他社サービスの価格が安く、品質もいいといった場合でも、企業上層部同士の繋がりにより、他社排除の方向で話が進んだりする。
営業の数字を考えると有り難い話だが、個人の数字が重視される部署でもなかったので、寧ろ「勝手にやってくれ」という気持ちが先に立った。
日々の細かい業務やお客様対応に追われ、重要案件の決めどころは上層部による忖度、、、 まぁ、資料作成や細かい事務処理は一兵卒たる営業担当が実施し、ゴールは上層部が決めるというのは十分に一般的な話ではあるが、「最初から最後まで自分でやれや!」という思いが拭いきれなかった。
もちろんそれが全てではなく、グループ会社によってはそういう政治が通用しないお客様もいたので、そこは自分自身の提案で喜んでいただけたり、お客様と仲良くなれたり、と悪いことばかりではなかった。
上司や先輩も悪くない、寧ろかなり良い人達で人間関係にも恵まれていたと思う。
他営業部のように数字に追われることもないし、仕事自体は配属後1年くらいはブラックだったが、徐々に是正されていった。
では、なぜ私が仕事を辞めるにいたったのか。
話は過去に遡る。
うつ病だと気づくまで 〜回想〜
私は悩みのない小学生だった。
常に一緒にいる友人が2人、休み時間ごとにお気に入りの紙飛行機を飛ばし、毎日がただ楽しかった。
深く考えるようなことはなにもなく、運動は苦手だったが子どもらしい子どもだったと思う。
5年生から6年生に進級する時期、進学先の公立中学が荒れているという評判を聞いていた父が私を塾に入れた。
親戚の女の子と一緒に中学受験してみてはどうか?という話だ。
小学校での私は学年で1,2を争う成績の良さで、勉強自体は嫌いではなかったので、塾に行く話に特段異論も反論もなかった。
小学校以外のコミュニティに入る経験がなかったので、人見知りである私はなかなか塾の友達とは仲良くなれなかったが、そこに不快感はなかった。
問題は授業の進度にまったくついていけなかったこと。
自分では気づいていなかったが、勉強ができるということが自分のなかで大きなプライドになっていたのだろう。
塾から帰ると、泣きながら参考書を開き、一心不乱に勉強に打ち込んだ。
そのかいあってか、入塾2ヶ月後のテストで上位のクラスに昇級し、さらに約10ヶ月後の入試本番で見事志望校に合格した。
合格の翌日、意気揚々と学校に行くと、珍しく担任の先生が教室で待っていた。
「えーいち、本当にその学校に行くのか?」と聞かれ、 当たり前だろと思いながら、「はい」と答えると、「そうか」と一言だけ返ってきた。
この時の私は子どもだった。
考えることもなく、塾に入り、受験をし、また考えることもなく学校を選んだ。
いまの友人関係や、これから訪れるであろう生活、私立に通うにあたっての学費のこと等など、私の頭のなかには一切なかった。
親友と呼べる友人と別れ、単身私立中学に入学した私は、さっそくぼっちになっていた。
少し話をすることはできるが、どうしても人見知りしてしまい、慣れない環境での人付き合いがこんなにも難しいものなのかと思い知った。
更に入った部活が良くなかった。
卓球部に入ったのだが、顧問は全く顔を出さない、先輩は自分たちで勝手に練習し、新入生には目もくれない。
部活初体験の私にとっては、そんなものなのだろうという感想しか浮かばず、適当に行きたい日だけ練習に行って、帰りたいときに帰った。
また、元男子校の中高一貫校だったため、女子の数が全体の1〜2割しかおらず、さらに私自身は中高6年間男子クラスとなり、女子との触れ合いが一切なかった。
これは思春期の男子にとっては、成長を著しく弊害する環境だと断言しておく。
少し話が逸れたが、中学入学後、普通は受験の開放感や新しい友人、初めての部活動等など、それまでなかった環境にわくわくし、楽しい学生生活を送るのだろう。
だが、私は塾にいた時同様、いやそれ以上に勉強に打ち込んでしまった。
私立だけあって、課題の量は多く、質も高い。
完璧主義だった私は自分が納得出来るまで自分を追い込んでしまった。
友人がいれば一緒に遊びに行って息抜きしたり、しっかりした部活に入っていれば部活に打ち込んだりしていたのかもしれない。
だが私は、とにかくしっかり勉強することだけに邁進してしまった。
勉強が好きならともかくやらなければならないという強迫観念と義務感からのみくるものだった。
おかげで、成績は常に学年上位をキープしていたが、中学3年のとき、遂に綻びが出た。
中学3年の冬休み、『なぜか』冬休みの宿題が終わらなかった。
やらないといけないことはわかっていたし、その存在も忘れてはいなかった。
奇妙な感覚だが、登校日初日になぜか終わっていなかった、という表現が正しい気がする。
宿題ができていないことに対する教師からのお咎めは無かった。
この時、きちんと叱ってくれていればなにかが違ったかもしれない。
ともかく、これを機に私は一切勉強をしなくなった。
正確には、学校から帰り、机の上に教材を並べ、やらないといけないことはわかっているのにまったく手をつける気にならない。
また、勉強しないといけないという思いから、遊びに行ったり、ゲームしたりする気にもなれず、学校から帰ってはご飯を食べ、机に教材を広げるだけ広げては直ぐに寝るという生活になった。
そんな状態が高校3年間続いた。
上位をキープしていた成績は当然、最下位近くまで落ち、大学受験は当然失敗。
失敗することも頭の片隅では理解していたのかもしれないが、完全に思考停止の状態でなんとなく何とかなる気がしていた。
もっといえばこれだけ苦しいのだから奇跡が起きるだろうくらいの気持ちだった。
志望校のランクを下げるとか、他にもやりようはいろいろあったはずなのに、現実を直視できていなかった。
友人も少なく、相談することもなかったため、中身は小学生のままだった。
担任が受験前、というより高校3年間の間に、真摯に向き合って説教してくれていれば、何かが変わったかもしれない。
思い出すたびに、少々恨みがましく思う。
1年間予備校浪人するも、状態は改善しなかった。
授業には出るが、やはり帰宅後勉強する気にはなれず、結局志望校には合格できなかった(それでもなんとか国立大に行くことはできた)。
大学に入ってからは、いまのままではいけないと思い、心機一転、ソフトテニス部に入部した。
弱小チームではあったが、社会人になってからも交流のある友人が初めてでき、テニスを生涯スポーツにしていこうとも思えた。
大学のレポートも学部の友人の助けを借り、単位を落とさず、無事に卒業できた。
更に他大学の大学院に進むこともできた。
大学院に進もうと思ったのは、就職に有利だからというのが一番の理由だった。
大学院での生活はこれまで以上に自由だった。
週に数回の輪講やミーティング、授業を除いてはいつ来てもどこで何をしていても構わない。
ただ、研究室の友人達が優秀だったので、私もつられて研究を進めることができた。
特に修論提出前の最後の2ヶ月は、かなり死に物狂いに頑張って、何とか卒業することができた。
大学、大学院の生活で、手に入れたものはかけがえのないものだった。
友人然り、テニス然り、技術的な素養然り、、だが、一番大事なものは戻っていなかった。
レポートや卒論、修論と、なんとかクリアはしてきたものの、そこには大きな抵抗があった。
事実、どれも〆切直前にならないと手を付けられず、それまではただ逃げ回る自分がいた。
そう、「淡々と継続して努力する」ということができないままだった。
社会人になり、研修期間中は特にプレッシャーもなく、楽しく過ごせた。
配属後、未知の環境で、未知の仕事が大量にやってきて、社会人の仕事はパラ(並列処理)で進めることが当たり前だと知った。
パラで進めるが、そのどれもが一発OKとなることはなく、また新しくやってくる仕事ですぐに溢れかえってキャパオーバーになった。
配属後半年で、私は会社を辞めると宣言した。
日曜の夜だったと記憶している。
その日の朝、部長から怒りの電話があり、重い身体を引き摺って一人出社し、数時間かけて見積りを作成し顧客に送付した。
その後、現在の業務内容と、今後やらなければならない課題を簡易的な引継書としてまとめ、辞める旨をメールしようかと思ったときに電話がなった。
直属の上司からだった。
涙ながらに辞めたい旨を電話で訴え、勿体無いと諭され、よく考えるように言われ、頷き、電話を切った。
その5分後、「いまから行くから待っとけ」と部長から電話があった。
直属の上司がすぐに連絡したらしい。
23時30分になる頃、タクシーで駆けつけた部長とともにカラオケボックスに入り、2時間程度、話をした。
いまの状況や何がつらいのか、仕事の量なのか、質なのか、お客様との相性の問題なのか。
何かを悟った部長は、私のこれまでの生い立ちについて聞いてきた。
私の心の弱さやトラウマについて探ろうとしていた気がする。
私は上で述べた中高時代の話をした。
「しょーもない話だが、感じ方は人それぞれだしな。。」という言葉が頭に残っている。
仕事の上でも、それを克服していくことが鍵になる、辞めるのはまだ早い、と言われその場は思いとどまった。時刻は深夜2時を過ぎていた。
それから1年間は死に物狂いだったが、部長による業務体制の改善、そして新しくやり手の課長がきて、負担が減った。
この2人にはあらゆる意味で感謝してもし尽くせない。
その後の3年間で浮き沈み、紆余曲折あったが、 結局辞めるにいたった一番の理由は 中学時代に緊張の糸が切れたまま、その状態が治らなかったことだと思う。
仕事を後回しにしてしまう、ギリギリまで手がつけられない、進めている仕事も一進一退でなかなかクリアにならない、その間どんどん積堆していく新しい仕事、煩い客からのクレーム。。
また、この負のスパイラルを助長したのが、電通事件に端を発する残業規制だった。
大企業たる自社も例外ではなく、20時以前の帰社の徹底がなされた。
仕事の量が変わるわけでもないのに、20時までに帰れ、朝早く来ればいい、 リモートで仕事をすればいい、とお上の勝手な声が響く。
無論、変化に順応していくのが社会人なのだが、私は順応しきれなかった。
ただでさえ、会社に行くのが気が重くなっているのに、朝早く出るなどできなかった。
それまで営業先から帰ってきて、夜の間に片付けることのできていた事務処理が溜まっていく。
残業規制など無視して、仕事を続ける人達もいたが、やはり人目が憚られる状況で堂々と仕事を続けるのは辛かったし、何より早く帰りたい誘惑に駆られた。
仕事はどんどん積堆し、やがて会社に行けなくなった。
上司が仕事を割り振って、普通にやれば難なくこなせる分量にしてくれたが、それでももう行く気になれなかった。
会社の携帯を音の届かない場所(自宅のトイレの隅)に放り投げ、昼まで寝ていることも多々あった。
会社の先輩から電話とCメールの嵐、、重い身体を引き摺って出社したと思ったら、先輩からの叱責。
私が悪いことはわかっている。わかっているのにどうにもならなかった。
先輩も上司も部長も、とても優しかった。でも、我慢の限界だった。
会社を辞める上での後押し、というか別の要素もあった。
- 父の死によって母のうつが悪化しているため実家に戻りたい。
- 結婚前のいまの時期ならギリギリ辞めても問題にならない。
- 大学の頃からパソコン1台で食べていくことに憧れがあった。
- このままいまの会社に定年までいるイメージが湧かない。
会社の皆からは同じようなことを言われた。
「辞めても、前向きな気持ちじゃなきゃ、いまと変わらないよ。行った先でも同じ状況に陥って、また逃げるだけ。」
仕事から逃げない自分にならないことには、どこに行っても通用しない。
とは言え逆説的だが、嫌な仕事から逃げることで、見えてくるものもあるはず。
そう考えて、大学時代から興味のあったアフィリエイトをしばらくやっていくことにした。
仕事を辞めてから知ったのだが、やらなきゃいけないのに手がつけられない、というのは「精神運動抑制」とか「気分変調性障害」と言って、うつ病の症状の一種らしい。
つまりは強迫観念と義務感のみで小学6年〜中学3年の約4年間に渡り、無理をし続けた結果、軽度のうつ状態になっていたということになる。
メンタルクリニックに行って、薬を処方してもらったこともあったが、明確な症名を言われたことはなかったので、これを聞いた時、肚にストンと落ちた気がした。
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